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凱旋門賞ドウデュース・武豊の足元を支えた「鐙(アブミ)」Made in Japanで“世界の頂”へ…町工場の挑戦秘話

おはなしコラム

2022/12/29 19:00

ロンシャン競馬場 武豊騎手が使用したアブミ (C)Hiroki Homma

「去年の凱旋門賞でも使ったんだけど、自分が使っていて足が痛くない、踏みやすい、ステップの幅の広さもちょうど良い感じで作ってもらった。ストレスはないし、安全性も間違いないから、世界に広まったらいいなと思っている。みんな興味を持ってくれているよ」

パリロンシャン競馬場。ドウデュースで凱旋門賞に挑戦する前、武豊騎手がもうひとつの“挑戦”について話してくれた。それは、競馬で騎手の足元を支える「鐙(アブミ)」の話である。時速60キロ前後で走る競走馬にまたがる騎手は、鞍の左右についているアブミで身体を支えている。

「今までは外国製しかないので、出されたものの中から選んでいた。今回は自分の好きな形で作ってもらったので、それは大きい」

そう話す武騎手だが、長らくトップを走り続けているレジェンドジョッキーをして、アブミの選択肢が少なくストレスを感じながら使っていたというのは驚きだった。いったいどのような経緯があったのか、アブミを開発した愛知県の町工場・エムエス製作所の代表取締役を務める迫田邦裕さんにお話を伺うことができた。

――まずは、凱旋門賞の渡仏お疲れ様でした。武騎手が御社のアブミでこのレースに挑戦したのは 2 度目とのことですが、迫田さんが目の当たりにされたのは初めてだそうで、率直なご感想を教えてください。

エムエス製作所 迫田社長 (C)Hiroki Homma

迫田 シンプルにまだ“現実味がない”というのが正直なところで、ウソのようなことが目の前で起きているな…と。武さんとアブミの開発を始めてちょうど 3 年ほどになるんですが、本当かなぁ、現実なのかなとまだ夢のような感じです。

昨年にも武さんには凱旋門賞(ブルーム騎乗)でアブミを使っていただくということで、“観に行きたいな”と思っていましたが、コロナ禍でなかなかフランスに行ける環境ではなくて…。でも今年は、画面越しで観るのと自分の目で観るのとでは感じ方が違いました。本当に不思議なご縁だなと思います。

――2019年の秋に、ゴルフクラブのアンバサダーとして御社の工場を訪れた際に、武騎手が「アブミを作れないか?」と閃いたとか…。そうしたオファーが来たとき、どう思われたんですか?

迫田 まず申し訳ないと思うんですが、武さんと知り合うまで競馬の知識はまったくなかったんですよね。もちろん“武豊騎手”という存在自体は知っていたのですが、それ以外のジョッキー、ジョッキーが使うものは何か、どんな馬がいるのか、など全く知らなかった。スタッフにもその頃は競馬好きのメンバーがおらず、「アブミ…って何?」と、青天の霹靂といった感じでした。

ただ、実は僕らが「何も知らなかったこと」。これが今回一番良かったことだと、今になって言えます。自分たちが普段使うものだと、どうしても先入観や作り手のエゴが入りやすいんですよね。でもアブミに関しては「まっさらな状態」でした。アブミへの足のかけ方も知らない、体重の乗せ方も知らない――そこから、武さんが仰ったニーズを素直にひとつずつ形にできた。これが一番大きかったかもしれないです。

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オーダーメイドだと思っていたので驚いた

――そもそも、武騎手ほどの長くトップを張っている“レジェンドジョッキー”と呼ばれる方から、「アブミをゼロから作りたい」というオーダーがあるなんて、びっくりですよね。武騎手レベルでも、外国製のアブミをいくつか出してもらって、そこから選んで使っているような状況だったとか…。

迫田 私も、既にオーダーメイドで作られているのかなと思っていたので、正直びっくりしました。推測ですが、いままでの日本のものづくりは“大量生産・大量消費”だったので、武さんのような方が声を上げても難しかったのかもしれません。でも今は“多様性・小ロット・多品種”に変わってきているので、ちょうど時代の流れにフィットして今回のようなニーズにも対応できるようになってきています。

そして、実際に工場に来ていただいて、目の前で機械が鉄を削っているところをご覧になった。おそらくそこで「ここならアブミについて聞いても、何かしらレスポンスがあるかも」と思っていただけたこと。現場を見ていただけたことが一番大きいかもしれないですね。“武豊騎手”が“町工場にいる”イメージがまずないですから(笑)

――本当にそうですね(笑)ただ、アブミという作ったことのないものをゼロから作るというのは、御社にとってもチャレンジだったんじゃないかと思います。

迫田 そのとおりです。ただその前に、私たちのような小さな町工場で作っているゴルフクラブのアンバサダーになっていただいて、武さんに感謝、恩返しがしたいなと思っていたんです。大企業のようなことはできないので、ものづくりで何かできないか…と思っていたところのオファー。感謝の思いをなんとかものづくりでお返ししようという思いでしたね。

あと、一番嬉しかったのは、武さんご自身が「“日本のものづくり”がもっと競馬界に無いとおかしい」「日本製のアブミがないのはおかしいやろ?」としきりに言ってくださったこと。これが私の中に一番響きました。“いま売られている中に、日本製のアブミがない”というのが一番大きかったので、その時点で“武さんだけのスペシャルモデルではなく、日本製のアブミをもっと普及させたいんだ”という思いに共感できました。

――そこから、いざニーズを聞いて、開発に入るわけですが…。従来御社で作っていた製品と、アブミを作ることを比較すると、難しさはありましたか?

武豊騎手モデル アブミ写真① (C)Hiroki Homma

迫田 アブミというのは、バランスが難しいんです。形状と重さが完全にリンクしているので、どこかを動かせばどこかが変わってしまう。そのバランスを取りながら、心地よさ・軽さ・安全性をすべて成立させる…これが非常に難しい。試作はかなり作りましたね。武さんに見せていないものも含めると20くらい。

金属系のものづくりは、想定した設計図が実際に金属にできるのか?という課題があるんです。果たして製造工程に乗るのか、設計図どおりの金属の形になるのか。そういった部分にもトライアンドエラーがありましたね。本当に微妙な調整が必要なので。

競馬界みんなのためのものづくり

――武騎手からのオーダーは、“乗っていて痛みがあった”というアーチの部分と、踏みしろの部分を主に改良してほしいとのことでした。実際にいちばん最初に武騎手が跨ったのが2019年のチャンピオンズカップ当日で、その感想がすごく良いものだったそうですね。

迫田 中京競馬場の検量室の木馬がある部屋で、初めて試してもらいました。やはり最初に跨ってもらうまでは「ダメだったらどうしよう…」という不安のほうが大きくて、なので武さんから「すっごくイイ。踏んだ感じで違う」と言われたときは気の抜けるような、純粋にホッとしたという気持ちが一番正直な、技術者含めて皆の気持ちでした。

そこから一番難しかったのは“重量”です。形状はできあがった。いざ製品化へ、というときに躓いたのがそこでしたね。ステンレス製のモデルが約10g、重く出来上がってしまった。武さんにとって良い形、乗り心地の良いフィット感のあるアブミの形はでき、耐久試験もクリアした。でも、そこから求められる重量に合わせるというのが一番難易度の高かったことです。

ただ、武さんの求めるニーズは「競馬界みんなのためのものづくり」なので、武さんは体重調整に苦労しなくても、そうでない人もいる。形状も、騎手になる人は武さんの乗り方をお手本にして乗る人が多いから、それにフィットするアブミを作れば多くの人がストレスを感じなくなるかもしれない、と。ご自身のことだけじゃなく、そこまで広く考えて仰られているニーズですから、応えないわけにはいかないですよね。

――それで、武騎手モデルのアブミはステンレス製と、軽量のアルミ製の2種類になりました。途中、コロナ禍もあってリモートで開発会議を行ったりされたとも聞いていますが、2020年6月の函館開催からついに実戦投入され、いきなり函館スプリントS(ダイアトニック)で重賞勝利したそうですね。

武豊騎手モデル アブミ写真② (C)Hiroki Homma

迫田 作り手としては嬉しい反面、“何か不測の事態があったら怖い”というのは常にあり続けるので不安な気持ちと、半々でしたね。もちろん耐久試験などを繰り返して机上では大丈夫なんですが、馬の行動、競馬の速度など、試験では試せない事態があったら…という不安は1年くらい続きました。もし不満足な部分や、結果が出なければ、元のアブミに戻されるんだろうなと思っていたので。

なので、今まで使い続けていただけているというのは、良いものだと認めてくださっているのかなとポジティブに捉えています。それが一番嬉しいことですし、凱旋門賞のような大きな期待のかかったレースでも私たちのアブミを使い続けていただけているというのは、何よりの喜びです。そうした良いものができたというのは、武さんが本当に色々なニーズを教えてくださったというのが有難かった。

“ニーズはこれだから、あとはやっておいて”というものづくりだったら、絶対にうまくいかなかったと思います。木馬で一から騎手の乗り方を教えてくださったり、工場に足を運んでくださったり、コロナ禍でもリモートで足の裏の写真を撮らせていただいたり(笑)ジョッキー以外の人が想像しきれない世界なので、第一人者である武さんが拾い上げたニーズを、私たちが形にしていく…という役割分担が本当にうまくいった結果かなと思っています。

――そうした開発過程を見て、川田将雅騎手も「自分のアブミを作りたい」と仰ったそうですね。実際に武騎手モデルを使用されて、2021年春のG1(高松宮記念・ダノンスマッシュ、大阪杯・レイパパレ)を連勝したとか。

迫田 川田さんの場合は、武騎手モデルがあったので、それをベースに開発を進めました。武さんとは乗り方やフォームが違うので、例えば体重を前にかける(武騎手)のか、カカトを落として乗る(川田騎手)のかで、こんなにニーズが違うものなんだと。ブーツの底とアブミの関係性を重視されていて、とにかく滑らないようにという部分を気にされていましたね。2021年の夏競馬からご自身のモデルを使用されて、今回の凱旋門賞(ディープボンド)でも使っていただいたようです。

あとは、ソダシがG1を勝ったときに吉田隼人騎手が使用されていて、「あれ…これウチのアブミ?」と驚きました。私たちは作り手・製造元で、販売は武さんが立ち上げられたメーカーという形で製販分離しているので、テレビで観て「このジョッキーも使ってくださってる」ということは多いです。パドックもアブミばかり見ていて、「これウチのじゃない?」とスタッフと盛り上がるという週末がここ2年くらい続いていますね。息子も「今日は武さんのレースある?」なんて聞いてきたり、生活も変わりました(笑)

――さらに海外にも、武騎手モデルのアブミは広がっているそうですね。アメリカでウッドワードS(G1・オルティスJr騎手)を勝っていたり、カナダで福元騎手が使っていたりと、確実に“Made in Japan”が広がっているようです。これも“良いモノがつくれたからこそ”ではないですか?

ロンシャン競馬場 武豊騎手とマイラプソディ (C)Hiroki Homma

迫田 本当に作り手としては嬉しいことなんですが、気づけば驚くようなことがどんどん起きているなというのが率直な感想です。武さんに感謝ですね。現場の騎手に求められているニーズが全部汲み取られたアブミが出来上がったからこそ、たくさんの方に使っていただけているんだなと思います。

日々ものづくりをやっていますが、“本当にお客様のニーズに寄り添えているんだろうか”“作り手のエゴの入った商品を納品していないだろうか”――そんなことを考えるきっかけを武さんにいただいたような気がします。出来上がったアブミだけじゃなくて、日々のものづくりのスタイルにも良い影響を与えていただけたということで、繰り返しですが本当に武さんに感謝ですね。

様々なニーズに応えるべく開発中

――武騎手モデルのアブミは、さらに調教用、乗馬用と開発が続いていくそうですね。

迫田 まさにいま、調教用のアブミを開発しようと、いま第一試作のところですね。武さんと相談して、これから変えていかなければならないので、“いつ出来上がる”とは明言できないのですが。「重いほうが良い」「アブミが暴れないようにしてほしい」とか、求められるニーズも騎手用とは全く違います。

馬に乗り慣れていない初心者の方でも危なくないように、アブミから足が(落馬などの際に備えて)抜けやすくしてほしいとか、北海道だと寒冷地なので金属だと冷たいかもしれないとか、いろいろなニーズを踏まえて開発していますね。一般の方の乗馬用は、その後の開発になると思います。

――ありがとうございます。今回お話を伺って、ファンとしてはますます“日本製のアブミで武騎手が凱旋門賞を勝つところを見てみたいな”という気持ちになりました。改めて今回の挑戦を振り返っていただき、アブミやものづくりについての将来の展望など、お聞かせください。

ロンシャン競馬場 武豊騎手とドウデュース (C)Hiroki Homma

迫田 今回ご縁があって、武さんに馬の世界とつないでいただきました。今回のアブミについてもそうですが、武さんが日本の競馬界を前に前に引っ張ってくださっているなと改めて感じました。微力ながら応援者の一人として、私たちが貢献できることはものづくりしかないので、少しでも応援ができたらというのが思いですし、これからもやっていきたいことです。

“日本のものづくりが元気であることは大事”だと、5年前に私自身が製造業に入って思ったんです。日本はいま、自信やプライドを失いつつあるような世相になってしまっていますが、今回の凱旋門賞も含め“まだまだ世界で自分たちのものづくりはやれるんだ”という気概を持たせてくれるアブミの開発でした。

結果自体は残念でしたが、武さんや松島オーナーの“凱旋門賞の夢を持ち続けます” “我々チームは必ず成し遂げるように頑張ります”というコメントを僕は素晴らしいと思ったんですよね。アブミの開発も決して平たんな道のりではなかったですし、武さんや皆さんの思いに感化されながら、折れない心で“チャレンジしていかないとな”と勇気をもらいました。私たちだけではなくて、ものづくりにもっとたくさんの人が入ってきて、もっと日本の力を発揮して盛り上げていってほしいなと思いますね。

12月、暮れの大井競馬場で改めて武豊騎手にもう少しアブミについての話を伺ってみた。そもそも、アブミを作ろうとなぜ思いついたのかーー。

「工場で鉄の塊が削られているのを見ていて、”あ、これアブミも作れるのかなあ”と純粋にふと閃いて。で、普通に訊いたら”できないことはないですよ”と。それで鉄の強さとか素材の話とかを聞いていたらますます”これは作れるな”と」

そうした”閃き”で出来上がったアブミ。わずか2年で、凱旋門賞挑戦の足元を支えるというシンデレラストーリーとなった。そして、武騎手が構想する今後の展望とは。

「実際にレースでも調教でも乗っていて、ストレスを感じることが多かった。それだったらこう変えられないかな…という部分を今後も実現していきたい。例えば調教用のアブミであれば、レースと違って履いている時間も長くなるし、重さの制限もない。世界的に使っているホースマンの数が多いというのはわかっているから、使う人にとって心地よく安全に仕事ができるものを作っていきたいね」

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